私は中堅の製薬会社に勤務しています。
本社は平成市にありますが、支店を転々とし、29歳の
時に本社に転勤となり、平成市に住むことになりました。
2年前に結婚して1歳の子供がいましたが、2DKクラスの
賃貸アパートを探しに不動産屋さんを訪れました。
「会社から借り上げ社宅として補助がでるので、できるだけ
良い物件を探そう」と、妻と打ち合わせの上の訪問です。
この不動産屋さんは、賃貸物件の資料を示しながら、世間話
風に私のことについて、実に巧みに聞いてきます。
「29歳で本社に転勤、最終の拠点が平成市であれば、
賃貸住宅よりも中古住宅を購入しませんか」と晴天のへきれき
ともいうべきことを、この不動産屋さんは平然として話します。
「エッ、不動産を買うのですか」と妻も私も素っとんきょうな
声を上げてしまいました。
何せ住宅を買うなど、夢にも思っていませんでしたから当然の
ことです。
土地が30坪に18坪の家が建っています。
築後年数が17年たっていましたが、不動産の価格は1,050
万円でした。
「この場所の土地の価格は坪単価30万円くらいしますから
ほとんど土地の価格で買うことができますよ。おまけにこの
土地は、住居地域(現在の第1種住居地域)ですから、建ぺい率
が60%、容積率が200%の家が建てられます。建て替えた
ときには、最高二階にしても36坪が建ちます。総二階にすれば
車も2台置けて、小さな庭で植木も楽しめますよ」と、何気ない
言葉で淡々と話してくれます。
土地だけ買ってテント生活はできませんが、水道も、ガスも
電気も来ており、もちろん、台所もお風呂も付いているわけで
すし、900万円くらい住宅ローンを借りても、月々の払いは
69,777円で済みます。
ボーナス払いはゼロの場合です。
小さな電卓で計算しながら、私たち夫婦の様子をチラッチラッ
とうかがいながら、話を進めていきます。
いつのまにか、不動産屋さんの奥さんがコーヒーを入れて
出してくれました。
「ローンの払いにはご主人の生命保険が付保されていますから、
失礼ですが、ご主人が交通事故でもしものことがあっても、
その後のローンの支払いは必要ないのですよ」。
「会社の社宅が安いからと言って、社宅に長く住んでいる人は
幸運の女神から見放された人のように見えて仕方がありません」。
赤ん坊はどういうわけか、ぐずりもせずに、にこにこ
していましたが、そのうちにすやすやと眠ってしまいました。
どうも奥さんがコーヒーをガーガーとミルで引き始めたのが
「賃貸よりも中古を買いませんか」と不動産屋さんが言い始め
たときのような気がします。
私たち夫婦は、完全にこの夫婦のプログラムに組み込まれて
しまっていたようです。
赤ん坊もプログラム化されていたのかも知れません。
「頭金がいるでしょう。貯金は全然ないのですよ」と妻は
いささか乗り気になって質問しますと、「手数料など諸経費
を入れて300万円は必要です」
「ご主人の里から150万円、奥さんの里から150万円出世
払いで借りてはどうですか」と平然としておられます。
話がよすぎるような気もしますし、気を取り直して、希望の
賃貸物件を2、3案内してもらうことにしました。
ところが、最初に案内してくれた物件が、この1,050万円
の売買物件でした。
さすがに、私もぶぜんとしてしまいましたが、妻は赤ん坊を
抱いたまま、つかつかと中に入り、部屋全体を見て回りました。
和室が6畳二間、それに14畳のLDKが付いています。
年数も経っていますので、古いのですが、少し手を加えれば
中古の賃貸物件と同じ感じです。
「わたし、ここに決めた」と言って、妻は6畳の部屋に
座り込んでしまいました。
生まれて初めての経験ですが、頭が真っ白になって、
呼吸困難になってしまいました。
「もう賃貸は見なくてもいい」と妻は言い出す始末です。
「この物件は押さえておきますから、親御さんとも
ご相談の上またおいでください」ということで、ぽかん
としながら店を出ました。
私は父に、そして妻は損害保険の代理店をしている自分の母
に電話しました。
双方から親が飛んできましたが、結論は全員が気に入って
しまったということです。
それぞれの親から150万円を出してもらい、めでたく
マイホームパパとマイホームママが誕生しました。
私たちはいま、遠隔地に転勤になっていますが、この家をまた
くだんの不動産屋さんに賃貸に出し、借り手を探してもらう
ことにしました。
子供もだいぶ成長しましたが、「奥さんがここに決めた、と
座り込まれたときのことが思い出されますね」とニッコリ
されるのが、ちょっと癪(しゃく)でもあり、あの時、この
不動産屋さんに巡り会わなかったらと感謝している次第です。
この不動産屋さんは、「未来の私たちの家」といって、
36坪の総二階建ての家に車庫スペースをとった平面、立面、
パース図面をプレゼントしてくれましたが、「今度は建築で
またこの不動産屋さんの毒牙にかかるのかな・・・」とお互いに
笑っています。