近所に美味しいと評判のうなぎ屋がある。
昼時ともなると店に入りきれないお客が外で手持ち無沙汰そうに順番を待っている。
聞くところによると、ここの店主はひつまぶしで有名な熱田区のうなぎ店で料理長を務めたほどの腕前だそうだ。
そりゃ繁盛するわけだ。
そんなに美味しいなら一度ぐらいとなるところだが、値段が高すぎる。
なにかお目出度いことがあったり、大切な人との会食というならともかく、何でもないただの昼ご飯に五千円近いお金を投じる勇気はわたしにはない。
それに昼にこんな豪勢な食事をしたら夕食の楽しみがなくなる。
「しょっちゅうならいかんけどたまにならご褒美と思って食べなさいよ」
妻はそう言うが、本心でない。
「わたしは冷蔵庫の残り物なのに自分だけうなぎなんてこっす~」
うっかりその言葉に乗って後で散々嫌味を言われた苦い経験はいまだに忘れられない。
「あのな、いちいちそんなこと報告するからかぁ? 俺、女房に昼に何を食べたかなんて言ったことないぜ。ラーメンでも食べたと言っとけばいいじゃないか」
お前アホかといわんばかりに友人はわたしをたしなめる。彼の言うとおりだ。
自分から言わないかぎり昼ご飯がなんだったかは妻が知るわけがないのだから。
とはいえ、うなぎを食べたのにラーメンだったなんて嘘をつくのも実に心苦しい。
あゝなんて気の小さい男だろう(涙)
その点、妻は自分が逆の立場のときは平気で嘘が言える。
娘がもう時効だからと教えてくれたが、ある日、妻は娘と買い物に行くと言って出掛けた。目的は買い物ではなく和食のコースランチだった。
その店は女性に人気があるようで、お客のほとんどが三千円~五千円のランチコースをためらうことなく注文するそうだ。
なんだ、わたしは吉野家の牛丼で妻は豪華ランチか(怒)。
食事のあとは高級フルーツショップで千三百円のパフェを食べたと聞かされ、さすがに腹が立ってきた
そういえばあの日の夕食はたしか焼きそばだった。
きょうは忙しかったから夕食は簡単ね、なんて言ってたけどそりゃ昼に豪勢なランチを食べたら夜は簡単な料理でもいいわなぁ、妻よ。
過ぎたことは忘れてやるけど、夕食に焼きそばなんて言うものだから小学生だったときのことを思いだした。
当時、父と母は仕事に出掛けて帰ってくるのはいつも夜の八時過ぎ。
兄妹三人分の夕食は中学生の姉が作ってくれた。
だが少ないお金で作る夕食は質も量も悲しいものだった。
その日、部活で帰宅が遅くなった姉は、買い物はもちろん料理する時間もなかった。
こんなときは近所の駄菓子屋の焼きそばが夕食のおかずになる。
肉もイカも入っていないけど天かすが入って当時はそれでじゅうぶんだった。
でも一人前の焼きそばを三人で分け合うのは子どもでも惨めさを感じた。
仲が良いとは言えないが特別に悪いこともなかった三人兄妹。
だが食べものとなるとみんな目つきが変わり、喧嘩になることも珍しくなかった。
その夜、兄がわたしに「焼きそばをたくさん取った」と文句をつけた。
末っ子だからといつも遠慮がちに食べていたのにそれを言われたら立つ瀬がない。
普段から溜まっていたうっぷんが爆発した。
「博! どこに行くの」姉が止めるのもかまわず家を飛び出た。
チクショー、貧乏が悪いのだ、なんでこんなに貧乏なんだよー。
外に出るとすでに陽は落ち辺りは暗くなってきた。
薄暗い外灯の周りには虫や蛾が気持ち悪いほど群がっている。
夕闇の中、ひとりとぼとぼ歩いていると近所の家から歌声が流れてきた。
月がとっても青いから遠回りして帰ろう・・・
独特の哀愁を帯びた歌声はわたしを切なくさせる。
威勢よく家を出たものの外で一夜を明かす自信も勇気もなかった。
貧乏がどうのこうのなんて言うには百年早い。
帰ろう。
さっき来た道を再び家に向かって歩き出す。
あと少しで家というところまで来たとき、だれかが暗闇の向こうでこっちを向き立ち止まっていることに気が付いた。
だれだろう。変な人だったら怖いなと思いつつも平静をよそう。
近づくとなんのことはない、姉だった。
「お腹、空いたでしょ。焼きそばは食べちゃってないけどおにぎり作ったから食べる? 」
姉のその言葉に思わず涙がこぼれた。
具のない塩むすびは焼きそばに負けず劣らず美味しかったけど、焼きそばを一人で一人前を食べたいと思った小学四年の夏だった。