気が付けばもう十二月も半ば。めっきり寒くなり鍋が恋しい季節になった。
寄せ鍋にカキの土手鍋、あんこう鍋やキリタンポ鍋、おっと~、忘れていた湯豆腐を。
昆布を敷いた鍋に水を張って一口大に切った豆腐を沈めたら、あとは豆腐がゆらゆらと動き出すのを待つだけ。
穴の開いたレンゲでやわらかく純白の豆腐を掬ったら醤油タレに漬け込みネギと鰹節をかけるのが我が家流の食べ方だ。
湯豆腐といえは京都大原に遊びに行ったときのことである。
目的は紅葉だったが温暖化の影響で紅葉は年々遅れ、十一月上旬にもかかわらず葉は青々としていた。
訪れる人はまばらで参道の売店のおばちゃんたちは所在なげに椅子に腰かけていた。
大原三千院近くまで来ると、歩いたせいかお昼前なのに腹がぐぅぐぅ鳴る。
湯豆腐が食べたいと妻が言うものだから店を探す。
辺りを見回すとちょうど目に入った白い暖簾がかかった店がいい雰囲気だったのでそこに入る。
「いらっしゃいませぇ~」
あれ?「おこしやす」じゃなかったか、京都は?
後で知ったが「おこしやす」は店に来たすべてのお客にかける言葉ではなく、より丁寧に迎え入れるときに使う京都弁だそうだ。
丁寧に迎えてもらえなかったわたしはお茶を飲みながらテーブルのメニューを眺める。
湯豆腐以外にもゆばや田楽、そばにデザートと多彩なメニューだが総じて安くはない。
湯豆腐定食が3千円を超えている。いったいどんな豆腐を使えばこういう値段になるのか。
「ここは京都の湯豆腐専門店よ。これくらいは普通でしょ」
わかったようなことを言う妻は、ここの支払いがわたしの小遣いで支払われることを知っている。
そうか、京都の豆腐は名古屋とは違うのだ、と思いつつ豆腐を口に運ぶ。
ハハハ、豆腐は豆腐だった。名古屋も京都も大した違いはない。
風情がわからない人ねぇ~。ほら見て、苔がきれいよ。素敵なお庭を眺めながらいただくなんて、あゝなんて贅沢なの」と妻。
フン、湯豆腐は安くて手間がかからないからいいのだ。
ここの湯豆腐にケチをつける気はないが、豆腐一丁三百円としても三千円はいくらなんでも高すぎる。
わたしが19才のときだった。
母は父、兄、私の男三人を残しこの世を去った。
それ以来、父も兄も仕事があるので家のことは学生だった私がすべてやることになった。
掃除に洗濯、食事作りと大変だったが、なかでも買物は嫌で仕方なかった。
夕方ともなると近所の商店街に晩ご飯の食品を買い出しに行かなければならない。
当時は今と違って買い物は女の仕事だった。
買物カゴをぶら下げた男なんてどこを探してもいない。
知り合いに見つかると恥ずかしいので、辺りが暗くなるのを待ってから買物に行くのだが、その日は最悪だった。
簡単、手間要らず、安いの三拍子揃った湯豆腐は当時、我が家の定番メニューだった。
さすがに毎日とはいかないので、たまには天丼でもとその日は惣菜屋に揚げた天ぷらを買いに行った。
天丼は湯豆腐に負けず劣らず省エネメニューで、買ってきた天ぷらを鍋で煮てご飯に乗せるだけ。
でもこれがけっこう父や兄に好評で夕ご飯が湯豆腐、天丼、湯豆腐、天丼となることもあった。
ともあれ、その日は豆腐に用事はなかったので豆腐屋を素通りしようとしたそのときだった。
「兄ちゃん。きょうは豆腐はいらんのか? へへへ」
からかうようなその声の主は豆腐屋の親父だった。
浅黒い顔の品性のかけらもないあの親父だ。
なにがおもしろいのか、わたしの方に指を向けて笑っているおばはんもいた。
それ以来、その豆腐屋に寄ることはなかった。
しばらくすると店が潰れたことを風の便りに知った。
若くけなげな学生をからかった罰が当たったのだ。
学生時代から散々食べた湯豆腐は今となっては懐かしいが、当時の貧乏を思い出させる嫌いな食べ物でもある。