人生の最後に「やり残したものはない」と思える生き方
ネットで見た書籍のタイトルが頭から離れない。
いままで人生の最後のことなんて真剣に考えたことがないが
いつ不意に当たり前の日常が失われるかわからない。
そのときになって慌てふためいても手遅れだ。
幸い、体と心は、いまのところ何とか大丈夫だ。
遅くはない。やりたかったのにやらなかったこと
いまのうちにやらねばならない。
尊敬する不動産会社の社長さんは、仕事に趣味は不要と
好きな魚釣りを九〇才になるまで封印、それまで大切にしてきた
釣り竿をすべてをへし折った。
持病の腎臓病のため厳しい食事制限があるなか、仕事は朝六時から
夜の八時まで年中無休。
さらに本業のかたわら不動産関係の本を何冊も執筆してこられた。
知っての通り、わたしには時間が限られている。
病気が進行していつ人工透析になるかわからない身だ。
動けるうちにやらないと後悔するに決まっている。
周りがなんと言おうと自分が決めことは決めたとおり実行する。
それだけだよ。
社長さんは気負いもなく淡々と話す。
あゝなんて崇高な生き方。わたしにはとても真似できない。
仕事に気分転換は必要と釣竿はいつでも取り出せるし
病気になっても「少しくらいなら大丈夫」と晩酌を止めない。
書くことだって、月に一回のニュースレターを書くのに
四苦八苦だ。
そんな男がやり残したものといっても、そもそも人に言えるような
目標すらない。
美味しいものを食べて、旅行に行って、釣りを楽しみ、ときには
ガーデニングで戯れ・・・と、まぁ欲望は限りなくあるが
とりわけ優先順位が高いのは釣り。
幼いころから魚釣りが好きで小学生の頃から名古屋城のお堀で
釣り糸を垂れていた。
安い竹竿しか買えなくて恥ずかしい思いもしたが、針に掛った魚が
引く感触は、わたしを釣りの世界に引きずり込んだ。
高校生になると釣りとともにバンド演奏も趣味に加わった。
もっとも、あまりに音楽の才能のなさにバンド仲間から愛想をつかれ
引退に追い込まれたけど・・・
それ以降はとくに趣味が増えることもなく、近場の内海や師崎辺りに
釣りに出掛けたが、近場ということもありワクワク感はなかった。
ある夏の日のことだった。
仕事帰りに同僚と立ち飲み屋で一杯やっていると
米本、こんどの夏休み、何か予定ある?
安くていい宿があるから泊まりがけで釣りに行かないかと唐突に同僚が誘う。
その夏、お墓参り以外になんの予定もなかった。
とはいえ、男二人で泊りがけでは色気もなく気乗りしない。
でっかいキスが釣れるらしいぞ。それにときどきマダイもかかるらしい。
お前、内海でキス釣りは飽きたと言ってたじゃないか。行こうぜ。
同僚のしつこい誘いに心が動き、男二人の釣り旅行が決まった。
じゃあ宿は俺が予約しておく。ゴムボートも車も俺が用意するから
米本は自分の竿と仕掛けを忘れないように持って来ること。
同僚よ! 釣りに行くのに釣竿を忘れるやつおるんかぁ?
不思議なもので行くと決まるとその日が待ち遠しい。
それからは道具を点検したり、釣具屋で仕掛けを買い足したりと
頭の中は釣りのことでいっぱいになった。
一週間後、同僚の運転で三重県南伊勢の民宿へと向かう。
宿に到着すると赤黒く日焼けしたご主人が笑顔で迎えてくれた。
荷を解き近くを散歩する。数分歩いたところに漁港があった。
暗くなると常夜灯の灯りが灯るらしい。
夕食後はここで釣りをすることにし、明るいうちは砂場で
キスを狙う。
青い海、青い空、砂浜に寄せては返す波の音が心地良い。
まるで絵に描いたようなシチュエーションだ。
大海原に向かって思いっきり竿を振る爽快感がたまらない。
夕方、釣った魚を宿に持ち帰ると、夕食のときに焼き魚で出してくれた。
冷えたビールが美味い。
出された料理はあっという間になくなり、残っているのは漬物だけ。
「追加注文いいですか」女将さんに聞いてみた。
大したものはできませんけどと言うので玉子焼きを頼んだ。
女将さん苦笑い。
お腹が膨れたあとは畳でゴロンと横になって休憩。
夜八時、夜釣りをしたいので女将さんに門限は?と聞くと
何時でもいいよと言う。
翌朝、夜釣りで疲れたのか目が覚めたのは十時を過ぎていた。
朝食時間は終わっていたが、おにぎり味噌汁、漬物なら
すぐできると言うのでお願いした。
昼からは再び漁港で釣り。昨夜は暗くて気付かなかったけど
海面の下では正体の知れない大きな魚がうようよ泳いでいる。
宿のご主人にそのことを話したらハマチ(ブリの子供)だそうだ。
「あとで養殖イケスの魚にエサをやりに行くから一緒に行くか?
網の外にもハマチいるから釣れるぞ」と誘ってくれた。
別料金を取られるかと不安だったが「金はいらんよ」とご主人が笑う。
二時間ほどの釣りタイムはあっという間に終わった。
残念ながら二人とも一匹も釣れなかったが、ご主人は三匹釣り上げた。
腕の差か(涙)
その夜、ハマチの刺身と塩焼きが食卓にあがった。
これもサービスらしい。あゝタダの魚のなんと美味しいことか。
楽しいことは時間が経つのが早い。
投げ釣り、夜釣り、ボート釣り、舟釣り、釣りの合間の昼寝に仲間との酒宴・・・
気の置けない仲間と過ごす三日間はあっという間だった。
あゝ豪華な料理も立派な部屋も要らない。
もう一度あのときのように風の吹くまま気の向くまま釣りがしたい。