Skip to main content
お知らせ

Information

お知らせ

Information

2026-02-08

終活

その日は朝から強風が吹き荒れていた。
空はどんよりして窓から見える木々は風で大きく揺れている。

こんな日は早めに仕事を切り上げて熱燗で一杯、なんて考えていたら突然、電話が鳴った。

「元気? 俺さぁ、今日、そっちに行く用事があるから久し振りに会わないか」

声の主は高校時代からの友人だった。
断る理由もないので事務所近くの喫茶店で落ち合うことにした。

約束した時間に店に入ったが友人はまだ来ていない。

奥の六人掛けのテーブル席では近所の紳士淑女が他愛もない会話で盛り上がっている。

これではゆっくり話しもできないので少し離れた席に着く。

ほどなくして注文したコーヒーが運ばれてきたが友人はまだ来ない。

冷めてしまわないうちにとコーヒーをズズッと啜る。

名古屋ではコーヒーのお供にピーナッツなどが付いてくるが、きょうは小さ目のバームクーヘンだった(ラッキー)。

どうせならピーナツも付けてくれればいいのに、なんて思っていると、「ごめんごめん、待った?」と小走りに彼が現れた。

「誘った本人が遅れて申し訳ない」とさかんに詫びるが、生真面目な性格は昔と少しも変わっていない。

ただ、着古したよれよれの服装には正直驚かされた。

白くなった無精ひげをかきむしりながら
「俺さ、仕事を止めて五年ほど経つんだ。自分の好きなように暮らし、煩わしい人間関係に気を使うこともない、あゝこれからが俺の本当の人生だと思ったよ。でもさ、それも最初のうちだけだった。今じゃ毎日毎日が暇でしょうがない」

うつむきかげんに話す彼の表情には覇気がない。

言葉がすぐに出ないのか話しも途切れ途切れになる。

わたしの怪訝そうな表情に気づいた彼は
「どうせ俺のことをくすんだ老人だと思っているんだろ。いいんだよそれで。体は動かないし、友だちと呼べる人間もいなくなった。楽しいことなんてないよ」と愚痴る。

「でさ、俺もいつ死ぬかわからないし、そろそろ身の回りの整理をしようと思って終活を始めたんだ」

終活。最近よく耳にするようになった。
死んだ後に迷惑をかけないように、ということなんだろうが、わたしはやろうとは思わない。

そもそも自分が死んだ後のことを考えても何も楽しくないし、それに残された貴重な時間をそんなことに費やすのは勿体ない。

「たしかにな。俺もそう思った。でもな、女房がぶらぶらしているなら今のうちに自分の本くらい片付けてよと言うんだ。お前も知ってのとおり俺の本、半端な量じゃないだろ。安い本じゃないのに埃が被ったままでは本も浮かばれない、そう思って古本屋に売ったんだ。そしたらけっこうな小遣いになったよ」

「よかったじゃないか。で、そのお金、どうした?」

「全然よくないよ。女房、そのお金で旅行に行こうよと言うんだ。俺がこの先、何があるかわからんから貯金しようと言ったら、女房、口も利かなくなった」

高校時代からデザインの勉強していた彼は、家が裕福なこともあり一冊数万円もするような美術書が本棚にびっしり収まっていた。

参考書の間にエロ本を忍ばせていたわたしとは大違いである。

だけど奥さんが怒るのは無理もない。老後のために貯金というけど、あんたの老後はいったい幾つから?

少し離れた六人掛けテーブルは相変わらず賑やかしく笑い声が絶えない。
和気あいあいはいいけど、正直うるさ過ぎる。

友人は気になるのか険しい表情で睨みつけるが紳士淑女、もとい、爺さん婆さんはまったく気づいていない。

「俺、あんな年寄りになりたくないわ。ちょっと文句言ってくる」

妙に正義感の強い彼は、時として暴走するからハラハラする。

「そのうちに帰るさ。放ってけって。で、終活はどこまで進んだ?」

「墓は用意したし、エンディングノートも書いた。後は葬式をどうするって考えていたんだ。そうしたらふと米本のことが頭に浮かんだんだ。俺の葬式には来て欲しいんだ」

「あのな、そういうこと言う奴ほど長生きするんだよ。でもな、まだ七十代だろ。人生百年時代、俺たちなんて老人としてはまだアマチュアレベルよ。そんなことより、お前、奥さん孝行している? 俺の前ではよく奥さんの悪口言うけど本当はそうじゃないんだろ。たまにはお洒落して奥さんと旅行でも行って来いよ」

えらそうなこと言ってるけど、なんのことはない。昔、わたしが娘に言われた言葉である。

遊びを我慢して喧嘩ばかりして、それで死ぬときに一番、お金を持っていたなんて洒落にならない。

旅行に行って、美味しいものを食べて、会いたい人に会ってと私にはやり残したことがある。

終活はまだまだ先になりそうだ。