週末に契約の予定が入っている物件の売買契約書や重要事項説明書の作成
に追われていたある日のことです。
深刻そうな表情で来店されたその方は、いまから半年ほど前 くらいでしょ
うか。「土地を探しているから」と一度だけ来店 されたことがあります。
まだ三十歳前の若いご夫婦で、親御さんの教育なのかご本人の努力 なのか
はわかりませんが、こちらが恐縮するほどお二人とも礼儀正 しい方です。
ご来店後は、毎月、月刊ふどうさん情報をお届けしま したが、条件に合う
土地をなかなかご紹介できなかったことも あって、お会いするのは今回が
二回目です。
「ずっと情報誌を送っていただいていたのですが、先日、他社で 土地を買
ってしまいました。ごめんなさい」
よかったですね・・・と言いたいところですが本音はガックリ。
「そうですか、ご縁がなくて残念です。ところできょうは?」
「じつはご相談したいことがあるのです。米本さんに相談するのは 筋違い
と思っのたですが、いつも送って頂くニュースレターで人柄 もわかってい
たので、きっと相談に乗ってくれると思って・・・・」
お店に入ってきたときの顔の表情から、なにかあったなとは思い ましたが
まさか他社で購入した土地のことで相談とは思いもより ませんでした。
「大丈夫ですよ。それでどうされたのですか?」
「じつは、わたしたち二人とも不動産のこと簡単に考えていました。
土地を 買って家を建てることなんて、みんながやっていることだからって。
でも、 場所だけは慎重に選ぼうねと妻と話していたのです。
そんな矢先でした。
チラシに出ていた土地は自分たちが最も希望していた場所でしたから
二人と も 舞い上がってしまって・・・」
「それで・・・」
「このチャンスを逃したくない・・・その気持ちが強すぎました」
「どういうことですか?」
「そこは四区画に仕切られた土地でした。
間口が広く地形の良い区画 が二区画 と、道路に接する部分が三メートル位で
そこの部分が通路の ようになっている 区画が二区画です。
わたしの希望は間口の広い区画 でしたが、妻は奥の区画の方 が予算的にも
無理なく買えるからと意見が分かれました。
でも、家計は妻がやりくりしてくれていますので、ここは妻の意見に従う
ことにしました」
ご夫婦が持って来られた土地の図面を見せてもらいました。
たしかにこの配置では日当たりは確保できそうにありません。
「ただ、日当たりだけは気になりました。
そうしたら、現場に居合わ せた営業 マンは私の気持ちを見透かしたように
『日当たりは設計次第でなんとでもなり ます』って言うじゃないですか。
不安が消えたわけではありませんが、この一 言で決心しました」
「それで契約はされたのですか?」
「はい。先日、二百万円振り込みました。
でも、そのあと、どうしても 日当た りのことが気になったものですから
何度か現地に行きました。
行くたびに不安が募り 、本当にこのまま進めて良いのか悩んでいた矢先
でした。営業マンが持ってきた 設計図を見てびっくり、建物の位置が
南側の家とものすごく接近しているので す。
日当りは設計次第でなんとでもと言っておきながら、これでは日当たりは
到底望めそうにありません」
「でも、土地の間口とか奥行とかは事前に確認しておられるのでしょ」
「ええ・・・」
「それならおおよそ建物配置のイメージは掴めたのではありませんか?」
「それはそうですが・・・」
「それできょうのご相談というのは?」
「この契約を解約しようと思うのです。どうすれば解約できますか?」
「解約ですか? 支払った手付金を放棄すれば解約できます。
でも それは二百万円を捨てるということですよ」
「手付金は返してもらえないのですか?」
「無理でしょう。あなたの都合で解約するわけですから」
手付け放棄に手付け倍返し
不動産売買では契約後に解除をする場合、買主なら支払った手付金を放棄、
売主なら受け取った手付金を返還した上に、それと同額を 買主に支払わな
ければなりません。
この方の場合、自己都合で契約解除をということですので、手付金は戻り
ません。
「たしかに私の都合かもしれませんが、営業マンの説明にも問題があると
思う のです。設計次第で…という言葉、あれは問題じゃないですか?」
たしかに、安易な説明をした営業マンの姿勢にも問題があります。
しかし、そのことを理由に無条件解約が可能かどうかは疑問です。
「それとですね、契約の方法も今思えば納得が行かないのですよ」
「と、言いますと?」
「あの日、そう、チラシを見て初めて現場に行った日のことです。
営業マンが、ここではゆっくり話ができないから営業所へどうぞと
誘いました。
私も聞きたいことがありましたので一緒に行くことに しました。
そうしたら、営業所に着くなり
『この物件は人気地区だ から早くしないと 決まったしまう。とりあえず
仮契約だけでもして 欲しい』と言うではありませんか。
たしかに購入の気持ちは固まっ ていましたが、さすがにこの場で契約と
言われると 抵抗がありした。
躊躇していると『仮契約だから心配いりませんよ』と言われ、 そうか
仮なんだから…と思い、言われるまま書類にサインをしました」
「それは、どんな書類だったか覚えていますか?」
「たしかA4ぐらいの用紙で、私が間違いなく購入しますという文言 に
なっていたはずです」
「それだけですか?もっとほかに書類があったのではありませんか?」
「いえ、それ一枚だけです」
おそらく、それは買付証明書若しくは購入申込書というものでしょう。
購入の意思を明確にすることで購入順位を確保する書類です。
契約書でもなんでもありません。
「その翌日でした。営業マンから二、三日のうちに手付金を振り込んで
欲しいって連絡がありました」
「手付金?売買契約もしていないのになぜ手付金を払う必要があるのですか?」
「間違いなく購入しますという書類にサインしていましたから」
「それで振り込んだのですか?」
「ええ、二百万円振り込みました」
不動産の売買契約では、契約書の署名と手付金の支払いは同時に行う
のが一般的てす。
「購入する土地についての説明や売買契約の内容などは不動産会社
から 説明はありましたか?」
「聞いたような気もします」
「売買契約書にサインはしましたか?」
「はい、お金を振り込んだ数日後に営業所に呼ばれサインしてきました」
「重要事項説明書は?」
「契約書といっしょに受け取りました」
どうやら契約は成立しているようです。
残念ですが支払った二百万円は戻りません。
それにしても「仮」とか「とりあえず」という曖昧な言葉で契約を誘導する
手法が大手と呼ばれる不動産業者で使われていることに愕然とします。
いずれにしても、今回のケースは営業マンの言葉を安易に鵜呑みした
側にも問題があるのではないでしょうか。